2015年12月13日日曜日

神戸旧居留地いまむかし 2015/12/13

今年も神戸ルミナリエが旧居留地で開催されました。この神戸ならではの街、旧居留地の歴史を振り返ってみたいと思います。

商船三井ビルディング(海岸通5番地)

明治の幕開けとともに現れた近代都市

 神戸居留地は、神戸外国人居留地とも呼ばれ、安政五カ国条約に基づき、1868年1月1日から1899年7月16日までの間、神戸市中央区に設けられていました。広さは東をフラワーロード、西を鯉川筋、南を海、北を花時計線に囲まれた約25万7000m²の区域で、140年ほど昔にもかかわらず近代的な都市計画に基づいて開発されたのが驚きです。ちなみに居留地とは一定の境界を設けて外国人に居住、貿易を許可する区域のことで、土地は日本政府の貸与でした。

設計は若干27歳の英国人


旧居留地のジオラマ(神戸市立博物館)左が六甲山、右が港

 突貫工事で進められていた居留地の建設は、幕府が崩壊したため一時中断していましたが、外国側から、居留地を早期に開設してほしいとの強い要望がだされ、工事が再開されました。5月23日、新設の兵庫県に伊藤俊輔(後の伊藤博文)が初代知事として就任しました。伊藤は居留地設計の見直しを英国人技師J・W・ハートに依頼し、居留地建設工事は、島屋久次郎が請け負いました。その結果、神戸外国人居留地は、22街区・126区間に整然と区割され、街にはインフラの整備、街路樹やガス灯、レクリエーショングランド(後の東遊園地)が整備され、美しい街が誕生しました。
 

雑居地・南京町の誕生


夜の南京町広場

 神戸開港日、居留地はまだ工事中で、居留地に住む予定の外国人は住むところがなかったのです。そこで、外国人たちは居留地外での居住を認めるよう日本政府に訴えました。それによって、日本人と雑居できる区域(雑居地と呼ばれる)が認められました。雑居地は、生田川と宇治川、海岸と山麗に挟まれた区域で、横浜などの他の開港地にはない神戸特有のものです。
 神戸開港の半年後、長崎、横浜から中国人10数名が移住してきました。居留地の欧米人は、中国人を買弁(中国人と取引するときの仲介者とした中国人商人)、通訳などに従事させていました。しかし、清国は「条約締結国」ではなかったので、中国人は居留地に住むことが認められませんでした。そこで中国人は、鯉川をへだてた居留地西側に住み着きました。そこが「南京町(中華街)」です。


メリケン波止場の語源

 
神戸郵船ビル(海岸通1丁目)


 神戸開港に伴い、各国は神戸に領事館を開設しました。居留地の建設が開港に間に合わなかったため、開港直後、アメリカ、イギリス、オランダ、プロシア、フランスは、領事館を居留地の外側周辺に開設しました。神戸に最初に領事館を開設したのはアメリカでした。アメリカは1867年12月5日神戸村庄屋の生島四朗太夫の屋敷を借り上げて仮領事館を設置しました。場所は、現在の海岸通りの郵船ビルがあるところです。アメリカ領事館前の波止場「メリケン(=american)波止場」と呼ばれました。


居留地返還

旧居留地に立つ大丸百貨店

 1894年、日本とイギリスとの間に「日英通商航海条約」が締結され、明治政府の悲願であった不平等条約撤廃がやっと実現しました。これにより、居留地は日本に返還されることになりました。
 居留地返還式は、1899年7月17日午前10時から居留地行事局、現在の大丸デパートがある区画の南東の一角で行われました。

旧居留地と神戸の今

旧居留地に現存する唯一の商館である「十五番館」も全壊したが、1998年に復旧した。

 1995年の1月17日、阪神・淡路大震災で神戸は大きな被害に遭いました。旧居留地もまたその大震災の被害に遭い、国の重要文化財、居留地15番館も、元の姿を留めることなく倒壊し、旧居留地内のビルの22棟は解体を余儀なくされるほどの甚大な被害を被りました。あの悪夢から20年、神戸は見事に復興を遂げ今に至っています。

阪神・淡路大震災犠牲者の鎮魂の意を込めるとともに、
都市の復興・再生への夢と希望を託して始められた「神戸ルミナリエ」は
今年で21年目を迎えた。

参考文献
川越栄子(2012)「神戸地域学-神戸の魅力を発見!-」大学教育出版
神戸外国人居留地研究会(2005)神戸と居留地 多文化共生都市の原像
旧居留地連絡協議会ホームページ
http://www.kyoryuchi-club.com/index.php
神戸市文書館(特集記事 神戸開港140周年によせて)
http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/document/year/140syuunen.html
取材:平良賢一